昭和56年4月23日 月次祭 ●⑨ 大坪かよこ
合楽教会に御神縁を頂いておかげを受けていく人、合楽にご縁を頂いて、いよいよ幸せな人生を送らして頂けれるおかげを頂いて、人間が人間らしゅう生きる生き方を学ばしてもらう、勉強さしてもらう、人間が人間らしゅう生きるということは、例えば、どこを切っても喜びが出てくるという生き方、ね、こう言う生き方を学ばしてもらうのです。
ね、人間が人間らしい生き方というのは、我情我欲に満ちた、もう、それこそ阿修羅のような生き方をしたり、ね、その我情が、我欲が人間を人間らしく生きることを許さない。
人間の不幸というのは、そこに始まる。
いよいよ人間が、いわゆる幸福世界に住む、ま、いうなれば、合楽世界に住むというおかげを頂くために、?信心のけいこをさしてもらう。
それも、その気になって勉強さしてもらえば、誰でもが、できる信心。
今日は、午後の奉仕の時に、新しい、初めてのお参りといったような方達がずーっと続いておりま、研修の時分まで続いておりました。
やっぱり様々な難儀な事やら、右にして良いやら、左にさして良いやら、迷いに迷うてお参りをしてくるという方達が多いのです。
中に、吉井のほうから参ってきた方が、えんぎょうを作って、判を作りたい、今まで持っておったけれど、それはまあ、印相というでしょうかね、その、はんぎょうの、まぁ、判にも、そういう、ま、相があるんだと、で、こういう判を持っておっては、病気をしたり、難儀な事が続くというわけなんです。
しかし、判を作り変えたら、病気もしない、健康でまあ、幸せが開くという、もしそれが本当であるとするなら、こんなに楽な事はないですよね。
そういうお願いがございました。
それで今で持っておられる判が、気に入らないならね、作り変えるということもいいでしょうけれども、ただその判の相が悪いからというようなことでならば、わざわざ高い金を出して作り変えなさることはいるまいと、ま、懇々とその道理を説かせて頂いた。
ね、道理を聞くと、人間ですから分かるのです。
今日は、これも、家を建てさせてもらうというので、お願いに見えられた。
そいで私は御神米と、それから、麻紐を一本差し上げて、これを棟が上がる時に、上にお祭りさせてもらう、上におかし、上からこう麻で落ちないように括り付けておかれたらいいでしょう、だからこれを括り付けておくだけでいいでしょうか、と言われるから私が、そのご神米に天地日月の心にと書いてあげた。
ね、そしていわば、家相とか、そういうことはいらん、もう使い勝手の良いのだけれども、この御神米を胸に収めさせてもろうて、その神様の心であるところの、天地日月の心をということを心にかけさせて頂いたら、もうほんとはお祓いもいらなければ、地鎮祭なんかは大体いらんとですけれどもね、あの、まあ、さしもらわにゃいけんと思われるなら、まあ、地鎮祭でもされてもそれはいいですけれどもというて、この天地日月の心を話してあげたことでございます。
●⑨ ね、どのような場合でも、これは、棟上だけ、家を建てるというだけではなくて、天地日月の心が分かって、それを行じていく生き方の中に、いつの間にやら、我情がとれ我欲が取れ、ね、自分で自分の心が拝めれるようになり、家内が拝め、子供が拝め、周囲の人も拝めれるように段々なってくるんです。
いうならば神様の心と同じ様な心、天地日月の心とはそのまま天地の心なんだ。
ね、ですから、願う氏子におかげを授けと仰せられますが、今度の御大祭を境に、もう、様々なおかげを頂いて日々御礼参拝がございます。
もうほんとに私もここで座ってお届けさせてもらって、まぁ不思議な働きを現して下さる神様だなと、ほとほと、それこそ感心しております。
ね、それは教祖の神様が、御理解三節の中にも、頂いておられますように、願う氏子におかげを授け、とおうせておられる。
ね、お前は一生懸命に参ったから、お前はお供えをしたから、というようなではなくて、願う氏子におかげを授け、そして次に、理解申して聞かせとある。
今日私がその、印ぎょうの作りかえをするという方に、また今度新たに普請をするという方に、お話をしたような、いわば話をしてあげる。
天地日月の心に成る事が肝要だと。
その今日、印ぎょうを作られるという方はクリスチャンなん、で、あることで大変おかげを頂いて以来、ま、合楽に様々な時にお参りなるけれども、まだ、年が.年限が若いですか、ま、いろんな事が分からん。
判の、判の相が悪いといわれりゃ、やっぱそうかなと、こう思わしてもらう。
そいでまあ、今日はお伺いに見えたわけですけれどもね、なるほど、ね、それはね、厳密に言うたら、調べたら、なるほど判にも相があるかもしれん、ね、いうならば、何と申しますか、日柄方位なんかでも、ね、あるかも知れない。
けれども金光様のご信心を頂いてお取り次を頂いて、天地金乃神様のお許しを頂いてするならば、ね、ご普請ならば使い勝手の良いのがよいのであり、もうとにかく、その身そのままで、いよいよ助かって行かれ、願えばおかげになる、そして理解を下さる、話を聞かして下さる、その話に添う生き方をさせて頂くうちに、いよいよ人間の生き方、本当の人間が人間らしゅう生きて行けれる生き方が、身に付いてくるのでございます。
ね、ですからどうしても、より人間が人間らしゅう生きるということをです、いうならば、教祖の神様は説かれております。
そして人間が人間らしゅうそして段々、いうならば、生き神金光大神の、ま、位というか、ね、御神格が頂ける様に、いよいよ信心を進めていく、お徳を受けていくという、ね。
えー、今日は結婚のお伺いが何組かあった。
二、三日前、お参りになって息子さんが結婚のことで、参ってこられ、で、お取次ぎさして頂いて、縁だけれども、その後にまた、もっとよさそうなのが、言うて来て頂いたから、というて今日見えられました。
そいで私は申しましたことですけれども、ま、良いことに越したことはないけれども、息子が気に入り仲良うやって行けれる相手ならもうそれでいいのです。
親の思いになるとか、ね、私の家の家風に合うような嫁というような事ではね、そんなに自分の思うように、型に入れたようなふうにはいけません。
かえってそうすると不自然な事になる。
例えば、あの、あなたのおうちが、こう言う家風だから、その家風に合わねばならんというのが、これだけなら、別な家風の人が入ってきて、少しははみ出すようになる、はみ出すようになるから、また家が繁盛するということになるのです。
ね、おばあちゃんと同じような心でしとったら、この中に納まってしまわなきゃならない。
ね、けれども、これがはみ出すとがおって始めて、いわゆる大きく豊かになっていくんです。
ですからまずは、その、まあ、何もかも足ろうた嫁ごということよりも、おばあちゃん自身が、あなた自身が、どういうたとえば嫁がきても、それをありがたく受けれれる心の状態を頂かしてもらう稽古をしときなさるほうが本当ですよ、というてまあ、話したことです。
皆さんでもそうですよね。
おかげが頂きたい、けどもそのおかげを頂きたいという受け物を、その作らせて頂くことが、まずは先決なのです。
これも結婚のお届けでしたが、おかげを頂いて、双方の親達も気に入る、本人達も気に入った、ところが昨日、突然向こうのお母さんがやって見えて、あんなに話があそこまで進んでおりましたけれども、この縁談は破談にして頂きたいと言うて、言うて見えた。
どういうことかと話を聞いてみると、どこどこにお参りしたら、相性が良くない、と言われるのです。
もうそれ一言で、せっかくの幸せを取り逃がしてしまう、また世の中には、そういう私に言わせると具にもつかないような事を、ね、信じてせっかくの幸せを逃がしてしまうような人たちが沢山ある。世間を狭もうしてしまう。それで私は私の方の両親の話をさせてもらった。
私の両親は、父が二十五歳、母が女の大厄、十九、いうならば、男の二十五といえば男の大厄と言われておるが、その大厄同士のものが結婚して、こんな親孝行の息子がでけとるじゃ無いですか、というてま、話したことでした。
だから、あるといや、確かにそれはあるかもしれないけれども、いろんな一つのそれが、学問、系統立てれば学問にも、易学といったような学にさえなるのですけれども、それは人間の幸不幸にはあんまり関係のないことなんだ、金光大神の道は、和賀心で頂けれる道であり、心一つでずべてを創り、しあわせになって行けれる道なのだから、ね、たとえていうならば、ちょうど玉ねぎがある、玉ねぎのあの下にはま一つ、根がたくさんついとるでしょう、ね、小さい根が一杯、丸い玉串が、ね、串じゃ無い玉ねぎが、ね、そしてその下に根がついておる、ですから、この小さい一つの根一つ一つを、なるほど研究したりするならばです、ね、罪ということになったり、ね、因縁ということになったり、輪廻ということになったり、人間がいよいよ救いようのない、助かりようのないことになっていくのですから、それを研究したい人は研究するも良かろうけれども、人間の幸せにはさほどに役立つものではない、ここは切って捨てるところであると、金光教の信心は、ね、下の小さいねぎ、ねぎ、ねぎでもそうですね、小さい、こう、しらみがいっぱいはえておる。
そこは切って捨てるとこであって、この玉ねぎのところだけを大事にしていくのである。
これを一枚一枚はいで、食していくうちに、これが無くなってくる。
いうならば、実の皮剥いでというと大変難しいけれども、清まりに清まる、改まりに改まっていくということになってくると、この玉ねぎの根、このことさえも、無くなってくる。
ね、そこに本当は自由無碍な世界、ね、合楽に通うていけれる世界、神様と氏子が仲良うしていくところの世界、願う氏子におかげを授け、おかげを頂いた、そしたら次には理解申して聞かせとある。
その理解と言うのは、先ほど申しますように、合楽、金光様の御信心の芯はなんというても、天地日月の心になること肝要なりであります。
だから、天の心とは、地の心とはと様々なときにそれを目当てにして、天の心地の心を求めていくこと。
日月の心、ね、今日もある方の、お取り次をさして頂いておりました。ほんとにま、中々修行もでける方ですが、もう、ま、またこんな難儀な事というような感じなんですけれども、ちょうどお届けをさしてもらいよったら、一本の大根をこう、頂いた、その大根のお供えをさせてもらう時には、大根のこの葉と根のこん付け根のところが黒くしてましょう、ね、ここは、食べられももちろん致しませんが、神様のお供えするでも、ここは削ります。黒いところだけ、ね、削ってお供えをするんです。
ね、ほんとに、なんか胸が詰まるような感じ、なにか心がスッキリしない心、はー、峠を越えたと思うたらまた次に峠があったというような感じだけれども、ね、神様はどこまでも、この黒い所をとらせたいという一念である。
神様にはこの黒い所を取らなければお供えにならん、思うて見ると、はあ、ここを改まためなければいけなかった、ここも当然こんなことでは、人間が人間らしゅう生きると言うことは出来ないことがわかって、いうならこれを取らせて頂くときに、大根である。
大根とは大きな根ということ、心が大きく豊かになる、ね、同時に、あの大根を、おろしでも頂きますと、心がべすっとこう、下がるような、ね、心の状態がいただけてくる。
胸につかえるような、それもいうなら、黒いところを取らせたいのが神の願いである。
ご理解を頂いて初めて分かる、ね、おかげを頂く、ね、神様はほんとあらたかな神様だということが分かったら、ご理解を頂かなければならん、ね、ご理解を頂いて、そしてその御理解に基ずく生き方をさしてもらうところから、おかげの喜びではない信心の喜びに触れることがでける。
信心の喜びに触れないと、ね、信心の喜びがないと、ね、また山越えたら、また越えんならんと言うてその山を越えることが、じゅつのうなってくる。
若い人が夏山に挑んでいくという、ね、大きなリュックを担いで、はあ、この暑いのに汗水流して、頂上を目指して行っておる、まあ、私共年寄りから見ると、まぁ、ご苦労さんというような感じですけれども、登っておる本人は、それがいうならば、喜びである。
ね、ほんとに若いときでなければ、味わえない、ま、爽快な気持ちにもなれるのでしょうね。
それこそ命がけで登るんですからね。山登りなんかというのは、ね。
というように、好きで登れば重いことも、危険を冒してでも上らせて頂くように、信心の道もやはりおんなしこと。
だから、まずは、有り難いという、有り難い心にならなければ。
先だってから、朝参りをして見える、もう信心はずい分長いですけれども、おかげを受けると言うこと、ね、を、ま、合楽のま、お参りをしておかげを頂く商売が繁盛するように、ま、病気が治りますように、健康でありますようにといったような程度のお参りの方がこの頃からよっと体が具合が悪くなった。
それもま、色々と、ま、親戚の方が、その何か、何様かを拝まれる、そして妹さんでしたか、だから、お姉さん、あなたがこの頃合楽、合楽というて参って、もう神様は合楽の神様一本になしてしまって、ほうしてもう何様かに様おがんどったとはみーんな、その合楽に持って行ってしもうて、あ、久富先生がそれを受け持っていつも、ま、焼却されるわけです。
ま、様々な仏様、神様もありましたが、その神様をいうならば、天地に帰っていただく、ね、それを粗末にする、こげな神様はというのじゃなくて、天地一体のその、天地の芯にかえっていただくというま、儀式こそ致しませんけれども、そういう心もちでここでは、さしてもらいます。
だかあら、あんたがそういうことをしたからじゃないかというわけなんです。
そういわれてみるとそうかも知れんというようなふうに人間というのは迷いが起こってくる。
ほいでまぁ、いろいろ癌センターにも・・?一時おられた、ところがこんだ、あんたは癌センターよりか精神科のほうが良かろうと言われるくらいに、神経をこの使われる、夜はいよいよ眠られないというようなま、一時は重態になられた。
ね、おかげを頂いて帰ってこられて、まあ、毎日朝参りをして見えて、長年参っておられたけども、月次祭というのは、この前の月次祭が初めてだった。
この前の月次祭にはおかげを頂きましたね皆が、もうほんとにおかげを頂いた。
もう、その、おかげを頂いた人たちの話を一つ一つあの本人からしてもらいたいようなおかげを受けております。
この方もその一人であった。長年お参りをしておるけれども、ね、月次祭といえば、日々おかげを頂いてお願い参りをするが、ね、月次祭にはお礼参りだと、そしてお礼参りをするその心の中に、有り難いお話しを頂いて帰らしてもらう、帰らしてもらって、朝、お夢を頂いた。
そのお夢というのがね、こう、はしごがずーっとこうある、ところがなかなかそのはしごが、ゆらゆらーしたような感じで、どうもあの危険を感ずるわけ、だから登れない、ところがそのはしごの根元の所に、沢山な菊の花を折ってある。
それから、スイートピーという花がありますね。あのスイートピーという花が売ってある。
そこで私はそのスイートピーを求めて帰ったというそこまでのお知らせであった。
どういうことでしょうか、私は、菊の花ということは合楽の信心、合楽のシンボルのように言われる花ですから、ね、ま、その足元のスイートピーを買わずに菊の花を買うとったら、いうならこのはしごにも登って行けただろうけれども、というてその日の研修のときに、どういうことであろうかと、いうてま、研修さしてもらいよりましたら、あのスイートピーというのは、豆の一種だそうですね、いうならばあの、まめで達者でとこういうでしょう。
その方はもう自分が、眠れないとか、体が具合が悪い、どうぞ今日も眠れますように、眠れますように、体が健康になりますように、ばっかり願う、だから、スイートピーだけを買うて帰られた。
これではよしおかげを頂いても、いうならこの、はしごを登ることは出来ない。
ね、菊の花を頂いたときに、初めて菊の花ということを漢字で文字って書くと、喜び久しいとある。
ね、信心の喜びをもってすると、このはしごはもうそれこそ、不思議にありがたく、そこには手がかりもありゃ、足がかりもあって、登ることがでけ、そして、段々自分の心も高められ、広う豊かに、いうなら視野が広うなってくる。
今まで、ま、判の相が悪いとか、家相が良いの悪いのとかといったようなことに、日柄方位のようなことでも気になっておった自分が、そういうものが取り祓われてくる。
金光大神のお取り次を頂いて、天地金乃神様のおかげを頂けば、そういうことはないという、広々とした所までが見えてくるだけではなくて、自分の心の中までが、隅々まで見てくるようになる。
ここにはこういうよがんだもの、ここにはこういう汚れたものがあった、その汚れたものが取り除けられ、よがんでいたものが、真っ直ぐに、そこから、不思議と喜びが頂かれる。
不思議です、ね、ここで言われる合楽理念の実験実証ということは、ね、教えに基づく、その教えに基づく生き方を、実験さしてもらうと、必ずおかげの実証がある。
心に喜びがわいてくる、自分で喜ぼうとして、喜べないけれども、確かに喜びとは与えられるものだ、そういう喜びがです、ね、いうならば、普通で思うとったら、危ないような感じのするところへ登っていくことが楽しゅうなってくる、高められていくことが喜びにいよいよなってくる。
ね、そういう信心を身に付けていく。
合楽に通うてくるということはね、そういういうならば、おかげを目指させて頂いての信心、ね、お互いがいうならばその菊の花を求めずに、スイートピーばかりを求めて帰ったのであっては、いつまで経っても、信心が育たない。
願う氏子におかげを授け、なるほど、まぁ、大祭からこっち、この前の月次祭からこっちの皆さんが頂かれるおかげ、それは、もうほんとに信心に始めて参った、初めて御大祭であげなお話を頂いたというような人たちが、やはりおかげを受けております。
だからそういう人たちが、ね、段々お話しを聞くにつれて、人間が人間らしゅう生きていく手立てを、楽しゅう身に付けていくということ、ね、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、とそして神も助かり氏子も立ち行くと仰せられるこの神様は私どもが助かったならば、その助かりが、そのまま、神の助かりであり、氏子の喜びがそのまま神の喜びである。神と氏子とが喜び合うて行けれる合楽の世界を願い、求めておられるのである。
ね、神様と氏子とが喜びおうて、いうならば、合楽しおうて、こっから生まれてくるおかげが、無限のおかげ、そういう心がそのまま合楽世界であり、極楽世界のもう一つ向こうにある心の世界、そういう世界に住まわせて頂いて初めて、私は有り難い死生観、この心がそのままあの世でも、合楽世界に住めるんだという確信の元に生活がでけていくという生活を私は、本当の意味においての、人間が人間らしゅう生きることはそういうことであると思うのです。
なるほど、今まで過去数千年の信心がときました。
ね、例えば仏教でいうなら、生臭けを取ってはならないとか、ね、ほんとに仏教を極めようとすれば、妻帯をしてはならないとか、ね、また、キリスト教あたりではお酒を飲んではいけないとか、ね、様々なそれこそ人間ではとてもでけそうにもないような、一つの戒律というものがある。
ね、金光教でいう、御神戒というのは、もうそれこそ、あの御神戒を皆さんが一読されて分かりますように、自分がその気になれば、ね、誰でもが守られるのである。そして、悟らせて頂けるのである。
ね、信心が分かったというだけではなくて、それがほんとにそうだと悟れたとき、ね、いわば人間の人間らしゅう生きる生き方というものが、身に付いてくるのです。
そういう願いをね、求め、いうならそういうはしごを一段一段上っていく、信心も手習いも同じことという信心、手習いをさせて頂くことが有り難いと思う信心、ね、そういう信心からそれこそどこを切っても有り難い、という喜び、ね、どこを切っても有り難いと答えられる信心、ね、その過程においてです、私どもが様々な事がありますけれども、その様々のことすべてが、神愛であると分かる。
先だってから頂きます御理解の中に、いわゆるおかげは和賀心にありという和賀心とは、一切が神愛であると分かるということだと教えられます。
ね、一切が神愛である、しかもそれを実験実証して、ほんとに神愛だと悟らしてもらった心が、和賀心である。
ね、いうならば一切を神愛としてだから受けられるということである。
それが和賀心、この和賀心には、もう限りない尽くることのない、あの世、この世を通しのおかげのいうならば世界、いわゆるシルクロードの道が開けてくる。
ね、そういう道を辿らせ頂く稽古だと言うことを、まず、思わなければいけないと思う。
お参りしてこれをお願いしたい、でけではいけん。
そのお願いをせねばならんことを通して、いよいよ信心をいわゆる高めていく、高めていくというても、さあ登れ、ゆらゆらしよる登れない感じだけれども、心が有り難い勿体無いになって来ると、ね、それが楽に登れる、嬉しく登れる。
ね、スイートピーを求めておったものが、もちろんスイートピ-も必要ですけれども、菊の花も一緒に求めての、いわゆるおかげを頂き頂の信心でなからなければならんということであります。
今朝からのご理解の中に、心は信心の定規じゃによって、この前の月次祭でしたでしょうかね、いわゆる、確かに心は信心の定規です、自分の心を見ると、はあ、これは自分は間違いないとこう思う心、ところがその間違いのないと思うておるその自分が、おかげの世界に入って行けない、おかげが現れてこないとするならば、これは、自分のいうならば、うぬぼれである、ね、これはどこか違っているぞと、いうならば、見ていく、いうなら、現れてくるおかげが、定規だというところまで、この前確か頂いた思うんです。
今日のご理解を頂きますと、あなたが祈っておる祈りの内容ということが、信心の定規だと頂きました。
あなたが今祈っておるということは、どーぞ、今晩も眠れますように、どうぞ、商売がどうぞ繁盛いたしますよう、それは誰でも願わにゃなりません。
けれども今、毎朝、朝のご祈念のときに、総代さん方がお届けをなさいます。
そのお届けをなさいます、いまあそこにマイクが置いてございますから、全館にそれが祈りを、お取り次を願われるのが入っております。
ですから、ここのお広前で御祈念をしておる全部がみんなそれを平伏して頂いておる。
そして総代さん方が祈られる祈りが、どうぞ私の祈りでありますように、祈りにならせて頂きますようにという祈りをもって、毎朝、朝の御祈念に参ってくる方達は、感じておるだおろう、思うておるだろう、また願っておるだろうと思います。
ね、もちろん合楽教会の大発展はもちろんのこと、ね、それこそ、天下国家のこと、和賀心、私の祈りの芯である、和賀心時代が世界の津々浦々にまで、ね、神の願いである十三日、十三日会というその詫びれば許して頂けれるほどしの素晴らしい信心をです、世界の津々浦々に広げていくこと、そして世界中の人間が、いわゆる人間が人間らしゅう生きていく手立てを、ね、まずは合楽教会から、まずはご信者の一人一人、家庭の中から、それが広げられていくというや、大きな願いを立てております。
ね、だから、皆さんが願っておる、ただ、自分の孫んこつばっかり、もう自分の息子んこつばっかりという、繰り返し繰り返し、始めはみんなそうです。
けども願えといわれたら、ほうそうだなというて、願うだけなら、誰でも口だけなら誰でもでけますけれども、ね、それに実が伴っておるかどうかということが、いうならば信心の定規だというふうに今朝から頂きました。
皆さんの祈りが、いいです、自分の事だけでいいです、痛いなら痛いことだけでもいいです、そして、それがおかげを受けたならば、その祈りが少しはましなほうに育っていかなければならないということなんです。
隣近所にも助かりを、の輪を広げていかなければならない、光明の光を、光明をいよいよ、いわゆる光輪、光の輪といわれます、神様は。
光輪、光の輪をいよいよ世界万国津々浦々に広げていこう、といったようなおかげを頂くためには、まずこちらの心の中に、光を頂かなければならん、それが、小さい光ではない。
昨日は佐賀支部の、二回目の大祭がございました。
去年は若先生が、参りましたが、今年は私がおかげを頂きました。
もうそれこそ、佐賀支部の真心いっぱいの、もう、それこそ、あそこは何畳でしょうか、お宅は、あそこは、あの、六畳か八畳ぐらいな部屋から、今度は外にまた十二畳の付け足しがしてございました。
紅白の幕をこう、テントを張って紅白の幕が張ってあって、もういかにも、御大祭だ、おめでたいなという感じ一杯のお祭りでした。
それに一緒に、福岡の伊藤さんという方が、ご参拝になっておられて、そのことを御礼申させておられたら、もうとにかく、あの、壁にこう塗るピカピカピカピカと光るのもがね、あん、塗りこまれておる、あれがありますが、そういうピカピカ光るものが、こうご心眼に頂かれた。
なるほど、佐賀支部には、まぁ一人一人のご信者さんが、ま、ぴかっと光るようなものを何か持っておられるような感じなんです。
よくこれが育っていくならば、素晴らしいご信者にみんななられるだろうということなんです。
ちょうどそのお届けがあったすぐあとに、佐賀支部の皆さん、昨日のお祭りの御礼参拝して見えましたから、そのことを話したことでしたけれども、このピカピカ光る程度じゃなくて、もちっとね、大きな、ひとつ光にならなければいけないな、そん為には、は、ここが人に好かれん、ここが神様からも嫌われるところじゃなかろうか、というものをまず、教えの鏡に立てて、分からなきゃいけない。
まぁ、私はそこまでは申しませんでしたけれども、伊藤さんが頂いておられるのは、ちょろちょろと下の方からゴキブリが出てきたというのです。
は、ゴキブリちゃかわいらしか虫じゃあるの、と言うものはおらんでしょうが、ね、
ね、何かあれが鈴虫とかなんか、トンボとか蝶ちょならね、かわいらしいというけれども、ゴキブリばかわいらしいちゃ言わんもん。もう見るだけでんぞっとするごたある。
だからそういうようなものが内容にあるんだと、銘々。
はあ、これが、人に嫌われるんだ、神様に嫌われる、いやゴキブリのようなものが自分の心の中にあることを分からしてもろうて、いよいよ取り除いていくことによって、和賀心の光というものはいよいよ、こう輝いてくる、さん然と輝いてくるようになる、いうならば佐賀支部にいよいよ大きなひれいが立つようになってくると言う、ま、信心をこれから願い、もうあちらでは、実に神ながらなことばかりございましたがね、もうほんとに、あの、神様がこんなにして、もうそれこそささやくように、または、大きな声をもってというように、あの、その、神様のいうなら、声とも思われるようなご教導を昨日頂いたんですけれども、神様が私共一人一人の上に、ほんとにこういう切実心を持って、どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよという願いをね、そこに感じずにはおれないよなものを感じた。
私は毎日それを感じます。ですからね、おかげに終始する、おかげも頂かにゃなりませんが、信心を頂くという、ね、ほんとに自分の心の光がいよいよ大きくなっていくことを、一つ楽しみの信心に、ま、構えを作っておいでられますとね、信心がいよいよ楽しいものになってまいりましょう。
いよいよ有り難いものになってまいりましょう、そしてこれならば、自分も極楽行きがでけるぞ、合楽行きができるぞという心に、この心がそのまま、あの世にもつながっておるんだと分かってくると、もういよいよ信心の究極の願いであるところの死生の安心すらまでもいただけるようになってくるんです、ね。
どうぞ、信心の、合楽で言われる人間が人間らしゅう生きるということは、ね、ただ我情我欲でも、いっぱい出し散らかしていってよいというのではない。
ね、そこが人間が人間らしゅうというところである。
は、おいしかけんちゅうちからもう、五杯も六杯も食べといて、ああ食べ過ぎた・・?
ね、そこんところをなら、五杯食ぶるとを四杯、というようにそこが人間が人間らしゅうでけるところじゃないでしょうか。
ね、そこからですね、いうならば、神様と私共の間に開かれてくる、ま、柔らかいシルクロードの道が開けてくる。
そこを歩くことの喜び、しかもそれは、楽しみ、これはあの世までも続いていく道であるというようなことが、わかって悟れたときに、初めて人間が人間らしゅう生きることがいよいよでけるというふうに思います。どうぞ。